「多くの従業員が工場再開のために駆け付けた」
復旧の見通しが立ったことを確認した磯部工場長は、従業員に対し17日に可能な範囲で出社するよう呼びかけた。工場内はロッカーが倒れ、タイヤラックが散乱していたため、再開する前に清掃、片付けをする必要があった。
「200名位が出社できれば、と考えていたが、予想を大幅に超える700名位が来てくれた。他の日も1日平均で350名もの従業員が集まってくれた。みんな大変な状況なのに本当に涙が出るほど嬉しかった」。ガソリンが不足する状況下、10km、20kmの距離を歩いて来た従業員もいた。
「これは絶対に大丈夫だと確信できた。本社などからの応援もそうだが、多くの人が来てくれることで私もどんどん自信が湧いてきた」
震災から12日後の3月23日、ついに生産ラインが復旧、3月28日には早くも夜勤シフトを再開した。実はこの時点でフル生産に戻すことも可能だったが、物流面での混乱が続いていた。「工場そのものは2週間で完全に戻ったが、物流部門や購買部門と相談しつつ、徐々に操業度を上げていった」。3月下旬に震災前の25%、翌週に50%と確実に操業度を回復していった。
それもつかの間、4月7日に震度6弱の余震が発生、再び停電で操業を停止する事態となった。
「あの瞬間は思わず膝から崩れ落ちた。しかし、翌朝には電気が復旧したので半日で再開できた。あの時のみんなの力強さは今でも忘れられない。私も含めて管理職は3月11日からずっと出ずっぱりだったので『何としても工場を再開する』と工場のみんなが一丸となってくれた。本当によく頑張ってくれた」
その後、4月11日に操業度を70%まで引き上げ,5月6日には震災前の水準まで回復、完全復旧を成し遂げた。
仙台工場で生産するタイヤの6~7割弱は、北米を中心とした輸出用。従来、輸出港として利用していた仙台港が津波で壊滅的な被害を受け、使用できない状況が続いていた。そのため、同社では一時的に桑名工場(三重県)との生産互換や他港を利用する物流体制を構築、新潟港や京浜港まで陸送し対応した。
ようやく6月8日、仙台港のコンテナ船取り扱いが再開し、初出荷されたコンテナには仙台工場で生産したタイヤが詰め込まれた。
「現在も一部、他港を暫定使用しているが、仙台港が再開したことで物流面の課題が軽減できた。秋頃には更なる復旧が見込まれてる。沿岸部にある倉庫の復旧が進めば、より良い状態に改善される」と見込んでいる。
伊藤晃総務部長の案内のもと、工場を見学した。壁や床の一部には亀裂を埋めたコンクリート跡が残るが、全体としては指摘されなければ被害の痕跡は分からない。
出荷場では完成した製品が次々とコンテナに運ばれていく。新たな設備の設置工事も行われている。震災前の活気が確かに戻っていた。
6月に開催した毎年恒例のビアパーティには、例年より参加者が多く、盛り上がった。ある従業員は、仕事があり、働ける場所があることで大きな安心を得た。また陣頭指揮を執り続けた工場長・幹部への感謝を口にする従業員も多くいた。
磯部工場長は、今後の目標について次のように話す。「当社グループは、中国・張家港での新工場建設やアメリカ・ジョージア工場の生産能力拡張、マレーシアでのシルバーストーン社買収と海外展開を拡大している。その中で仙台工場は、乗用車用タイヤのマザー工場と位置付けており、世界トップレベルの品質、技術部門と連携した最高性能のタイヤを仙台工場で生産し、海外へ展開していく役割を担っている。震災の影響でやや遅れが出ているので、早く取り戻していく。同時に長くかかるであろう岩沼市や宮城県の復興のため、ボランティア活動などを通じ、今まで以上に地域へ貢献していきたい」